儒教における 「五常」のひとつ
仁
論語で きちんと 定義されている訳ではない
普遍的な愛を 云うのかもしれない
ニッポンの文化は
曖昧なものと されてきたが
論語の表現も
このように さほど 具体的ではない
解釈の難しいものも ありそうだ
奥が深い言い回しは
結局 抽象度が高く
曖昧にならざるを得ない のであろう
だが
曖昧が故に
その曖昧さの中に 真理を見出すことの
喜びもまた 存在する
即ち
哲学は 具体性を持って
教わり 導かれるものではなく
教えを乞うもの自身が その内面に秘めた
真理を発見することに 意義があるように思うのだ
自分なりの 真理である
悟りを開く という感覚に
近いのかもしれない
それが 何を意味するのか
どんな境地なのか 分からぬまま
勝手な 解釈ではあるが
ともあれ
近頃 残念なのは
奥が深い そういう 抽象表現が
文章にも 会話にも 減ってきていることである
良いか悪いか イエス か ノー か が氾濫しているのである
曖昧さが 否定されているということに他ならない
抽象的な物言いを
受け手が 自分の言葉に翻訳し
自身の心の奥底まで 思い 考え抜いて
自分にとって 相応しい考え方としてとらえ
真摯に受け止め 自らを修正する
そんな状況は 少なくなったようだ
かつては 抽象論が多く
受け手 話し手 互いに誤解が発生する
そんな 危険を はらんではいたものの
受け手が 自分自身の問題を
自分なりの解釈で 改めて見直す
そういう 大切なきっかけに なっていたように思うのだ
そうして 受け手に伝わるものは
話し手の 有無を言わさぬ指摘ではなく
豊かな 思いやりある助言として 受け留められ
自身の反省として より深く
心に刻まれていたのではないだろうか
納得がゆく 教えというものは
そんなものだろうと思う
指示や指摘が
具体的であればあるほど
反発を招くのではないだろうか
たとえ それが真理であっても
自律を促すためには
曖昧な手順もまた 必要なのかもしれない
そこに 普遍的な愛があれば の 話だが
諸先輩の小言の その行間を読み取る 力量を
つけたいものだが
仕事や 周辺が
曖昧さを ひたすら捨てている
そんな 環境にあることも 事実なのである
行間は要らない
マニュアルだけあれば
それで良しとする
それが ほんとうに 文化といえるのだろうか
ファクト・コントロール は
矛盾や曖昧さの中でこそ 価値を生むのではないだろうか
と 逆らってみることも
大切なのだ
ファジー と ファクト の
バランスが
文化の キレ と コクを 決めるのかもしれないと
似非ビールを 呑りながら ニッポンを思う
まさに 第3の 文化である
さて プレミアム・ビール の バランスや 如何に
なにやら 禅問答風 である
あなたの 真理が 皆のそれと近づくとき
価値が生まれるのかも知れない
一方的な 正義の押しつけであってはならないのだ
コメント